昭和41年10月22日 夜の御理解
世の中には、あの人は、仏様のような人じゃと、神様のような人じゃと言われても、次々難儀な事が起こってくると、どうしたことであろうかというような事が、あろうがと、信心しておかげを受けるのは、別物ぞと、教えておられます。
教祖金光大神の、一つの通念をこの喝破しておられるという感じがいたしますですね、通念と言うても、これは、現在の、が(?)来ておる、もう最高の通念を、喝破して、それを打ち破っておられるというこれはみ教えだと私は思うですね。
今日の、西日本の夕刊に、一週間に一遍づつあの、「心」という、何か信仰関係の、事が色々、新聞、あの、半ページにわたって色々載っておりますですね、でその「心」というところに、いつもに( ? )書いてある、中に、医大の先生かなんか、教授の方ですが、その方が見出しにこういう事を書いて色々、説明をしておるですね、『「信仰で病気が治るか」と、っていったようなことなんですね、ですからこれを言うと、「信仰でお金持ちが出来るか」と、ということなんですね、だから、その信仰で病気が治るかと、何か、一つの、病気なら病人に対して暗示を与える、暗示を与えたことによって、その病気が治る、そして、その教祖になったり、生神様になったり、しておる人がある』といったような事を、書いてある、確かにその一つの暗示をこう与えられますとですね、ですからその、暗示によって自分がその心配で心配でたまらなかったものが、フッと自分の心生き返られて、「はぁこれ心配することじゃないんだなぁ」と、まあ例えてここで言うならば、「はぁこれは親先生という人にお任せしときゃいいんだな」と「あんただけじゃないですよ、この人もこんなおかげ頂いてるんですよ」と、「ねぇ私の取り次ぎによって、もうこんなに神様のおかげを頂いているんだから、あなたの病気だって心配いりませんよ」と、いう例えば、暗示を与えると、その人が、「はぁこりゃ自分もおかげ頂ける、助かるぞ」とこう思う、そういうようにその暗示を与えるということの、よってその病気は癒えると、これはまあ私に言わすると、なら、お金儲けも出来るということになるのです、あらゆる難儀が解決するということも言える、ね、けれどもこの人は何を言おうとしておるかと言うと、「信仰で成るのじゃないって、そういう心の状態にならされるということで、おかげになるのだ」と、言うておりますですね、ですから、信仰がなくても、ね、信仰がなくても、そういう状態になったら、その病気が癒えるといったような場合もある、奇跡が起こる場合もあると。
教祖の神様なんかも、「家庭に不和なきがもと」とおっしゃった、「信心には家庭に不和なきがもと」とおっしゃった、または、「おかげは和賀心にあり」と、ね、和らぎ賀ぶ心と、家ん中が和らいで、円満になっていきゃぁおかげ頂かれると、ね、自分の心が和らぎ賀ぶ心になればです、おかげが受けられると、という風に教祖様は説いておられますが、その、今日書いておる人もですね、あの、そういう例えば、言わば、家庭の中に、不和であったのが、円満になったら、おかげが、病気が治るとか、店がなおって行くとか、といったようなことを、まぁキャッチフレーズにして、おる宗教なんかもあると、まあ何か、そういう風な表現をしておりました、してみると、そういう中に、まあ金光教の信心も入るわけなんです、教祖の神様はやはりそれを、そこにキャッチフレーズどころか、まあそれを( ? )のように言うておられますもんね、「生神金光大神天地金乃神一心に願え おかげは和賀心にあり」一心に願うことは自分の心の中に、和らぎ賀ぶ心を頂かしてもらうことを一心に願え、おかげはそういう心にあるんだと、もうこれが金光教で言えばキャッチフレーズです、ね、ですからその読んでいきよりますことにですね、私は反発は感じません、そうだそうだと思うて読みます、皆さん後で読んで下さい、なかなか勉強になることが書いてある、ね、けれどもです、そういうことではない、そういうことではないと、言うなら、その、教祖の神様が私は、そういう一つの通念というものをです、ね、喝破しておられる、そういう通念というものを、一つ脱皮しておられる、破っておられる、そこに教祖の信心の素晴らしというのを、感じるんですけれどね、只今申しますようなみ教え中から、御理解の中から、ね、世の中では、あの人は仏様のような人じゃ、神様のような人じゃと言うけれども、ね、次々難儀な事が起きてくると、どうしたことであろうというようなことがあろうがと、信心しておかげを受けるのは、もう別物だと、それから先の事を教祖はおっしゃっておられるですね、この辺が、だから私信心( ? )、本当にそこんところが分からなければです、例えばそういう通念的な、学者が通念です、いわゆる、学者はそこまでしかまだ分かっていないです、そこから先の事は分かっていないです、なら私が言おうとすることも、そう先の事だけでも、そんな、もういっちょ向こうに(?)、向こうにも、その真実というのは、あると思うんですけれどもです、例えて言うならば、そんならその方に、言い方で申しますならば、あの人は仏様のような人じゃ神様のような人じゃであれば、信心がなくても、ならおかげ頂かんならんのだけれども、おかげ頂いてないでしょうが、次々難儀な事が起こってきた、けれどもなら、あの人は、なかなかずるい人じゃ、汚い人じゃと、というような人でもです、ならお取り次ぎを頂いて、日々おかげを蒙っておるという事実もあるということ、この辺なんかは通念の喝破です、ね、そして、その向こうに、神様の、お働きというものを、説いておられる気がするんです。
今日はあの、丁度、四時頃だったでしょうか、高橋さんが今日、お礼に出てみえて、(?)を五年で、「先生、結婚式周年記念になります、その日にあたりますんで、一家揃うてから、お礼に出てきた」っち、この子が、結婚、(一生の内に、以上にたたれたんです?)、ね、二番目んとが三周年記念、三番目んとが、六周年記念たいのと言うてから笑ったことなんです、記念記念に(?)はおかげ頂いておられる、ね、してからその、ちょっとこちらへ入ってお茶でも頂きなさいと、私が下がった時ですから申しましたら、「いえ先生今日はちょっと、早く帰らんと用事がございますので、もう今日はこれで御無礼します」と言うて帰られた、それでからちょっと、( ? )ばいの、ってから申しますから、私、ちょっと心が動いた、「うんなら私もそこに乗せて行ってもらおうか、私もあそこにちょっとそこにやらせてもらおう」ね、あちらに、今日昼から、委員長が、文男さん頼んでってやってきている、それでちょっとやらしてもらおうと、「そんなら一緒においで下さい」っち言うて、ここまでおくってきたところが、私の心の中にです、神様が「ちょ、ちょっと待て」というようなことを頂くんです、または、「いや、( ? )ちょっと、(?)これで行くことあるよ」という風にも頂くんです、あらどういうことだろう、と( ? )と思いよったです、「まあならこの次にさしてもらい、もらうから、ちょっと今日はやめよう」と言うて、その(?)行ってもらうはずの私がやめて、まあ表まで送って、送り出したんです、高橋さん達を、送り出したのと、あの高芝さんとこの長男の正雄さんが、来たのが一緒でした、「はぁおかげ頂いた先生、車を今日買いさいてもらいましたから、ちょっと御祈念をして頂きたい」とこう言う、ね、「なら丁度良かったね、おかげを頂いて」でお礼をさしてもらい、御神米頂いてから、その事お取り次ぎさしてもらい、そして、今度は高芝正雄さんの、( ? )ますから、なら( ? )私はあちらへまいりました、現場へ、ね、現場にもまいりましたら、丁度秋永先生が、自分の自動車に乗ろうとしよるところであった、そこへ私は着いた、「いや先生とってもどうしても、こりゃ親先生に分からん所がある、今あなたを呼びに行こうとしよるとこでした、丁度良かった、おかげ頂いた」というわけなんです、それで私が、高芝さんにも申しましたとですたいね、「神様がね、あんたの車の、御祈念をさして下さるために、神様が「ちょっと待った」と待たして下さった、あんたの車おかげ頂くよ」と、とまあ私はそれを確信を持ってまあ言うことが出来ますし、同時に神様のその微妙な働きというものがです、ね、例えば私があちらへまいりましたら、秋永先生が私を呼びにきようとしよるとこであった、こういう事なんかは、例えばその、学者の方達がどういう風に説明するだろうかと、これなんかは、例えば、ね、自分の心の中に、あの、暗示が与えられたから、ね、いやその、暗示を誰か与えたから、そうなったんじゃないでしょうが、ね、例えばなら病気の場合でもそうなんです、ね、その人に、「あんたんところは、家庭が不和だから、病気をしておるのだから、円満になりなさい」と、円満になっておかげを頂いたというのならです、分かるんですけれども、ね、内には、そういうこと何にも知らない、この、子供なら子供が、もう( ? )の病気をしておる、母親が一生懸命なった、この子供が奇跡的に、どんどん助かりだしたという事実がなんか、これどう説明する、子供に暗示を与えるわけにはいけんじゃない、ね、それから先に信心の世界ということが皆さん分かるでしょうが、私は、教祖の信心の素晴らしさというのはね、もう実に実にそれは平凡な表現なんですよね、世の中には、あの人は仏様のような人じゃ神様のような人じゃと言うけれども、次々難儀な事が起こってくると、どうしたことであろうかと、信心しておかげを受けるのはまた別物ぞという、その別物というところ、表現はもう実に、素朴な表現なんですけれども、そういう学者がもう、勉強した上にも勉強してです、ね、真理の追究をやってです、ね、そして分かられておるのは、信仰で病気が治るのではない、そういう暗示が与えられるから、病気が治ったり、奇跡が起こったりするんだという風にしか、まだ説明が出けれんのが、現在の人間の学問だと私は思うのです、ね、言わば、お道の信心さしてもらう例えば、人間は悪うても、あの人は、ならずるい人であっても、お取り次ぎを頂いてそこから、おかげの受けられる道があるということ。
これは、こういうでで、申しますならもうきりがないこと、ね、これはもう、あられる万事万端の事において、その、体だけの事じゃない、経済的な事だけじゃない、人間関係だけの事じゃない、ね、農作物の、豊作の事だけではない、商売はんだけの事じゃない、もう全ての事においてです、金光大神の御取り次ぎによって、私共が受けていく、おかげというのは、でだからその人が言うておることも、嘘ではない、御理解を頂く、「はぁ自分が間違うておった」と悟らせてもらうところに、おかげが頂けれる道が開けるということも事実なのだと、だから、これは信心があってもなくても、そういう風に、誰かが暗示出されていく人があって、暗示を与えられたら、それ、信心がなくても、病気がなおなるという、それ、そのことがやはり事実なんです、けれども信心の世界というのは、もう一つその向こうに、これは私共でも分からないなにものかがあるということ、そのなにものかに向かって、私共は一生かかっていく、そして真実から真実を追究していくんだと思う、そこにお取り次ぎを頂かなければおられないものが、またあるんだということ、ね、この問題はもう、まあ威厳的にお話をするならもう限りがないと思うんです、ね、万事万端の上にご都合お繰り合わせを頂く、今晩も、委員長秋永先生が申しておりました、お商売に非常に最近おかげを頂いて、十三日の午後までは、もうそれこそもの凄い、と思わぬ分に商売の上におかげを頂いておった、丁度十三日会の時だったでしょうか、あそこに残ってから、何かの事でですね、今度塀が出来ます、あの塀が出来るのに、私は「こういう色が良いんじゃないか」ってこう、言うたところがその、「あっ先生それで行きましょう」っち言うてからもう、頭から、その、反対したんです、ね、そりゃその、私をしゃっち頂かんならんというのじゃないけれど、と言うて、まあそげなん風だった、ところがです、ね、十四日から、ってその頭が痛うなってしまった、勿論( ? )、ね、それで、その、昨日、お~、あ~、二十日ですか、だからもうその間全然、、そのより、そのピッシャっと商いが止まったわけではなくてですね、現在商いを、どんどんしておったのが、もう(?)って帰ってくる、ね、これにはもうどうもこうも仕方がない、これはどう、どうしてじゃろうか、どうしてじゃろうかと思うて、昨日も自動車の中で、その事を、を、こりゃもう、回る回るしこ、(?)反対に帰ってくるから、ね、もう文男さんとこでも行こうと思うて、昼から文男さんところへやらして頂いたから、昼からは帰ってこなかった、帰る道々思うたんですね、どういうことじゃろうかと、そして、ふっと自分がその、ここ初心の自分、椛目で初めの自分にです、本当に親先生が例えば白でも、黒とおっしゃったら、「はぁこれは黒ですなぁ」とこう思いよると黒に思えるように、の時代があったと、白を赤とおっしゃりゃぁ、先生が、白が赤と( ? )言うてから、「はぁほんに赤ですなぁ」と思うて見よると、これは赤になってきたといったような、そのような時代があったんだというわけ、先生がおっしゃった事に私は、心の中に、「そげなんことではいかん」というて、先生の言われたことを、もう真っ向から蹴ってしもうた、「はぁ~おれが御無礼じゃったなぁ」とこう、心の中に思うてから、心からお詫びさせて頂いたらもう途端にですね、商いが、またもとにもどっていきよるという話しを最近しておりました、ね、こういう事実なんかは、例えば、例えばその、暗示とかね、え~、何とかというようなものじゃない、もう何か知らんけども、本当になるほど生きた神様だと、側に生き生きとこう働き続けてござるというものを、感じんわけにはいかんです、例えばなら私は今日、御用の現場に、こっからやらして頂きました、その事を言うてもそうでしょうが、もう理屈の問題じゃないて、ね、でもう一つ、教祖の神様のみ教えの、その神恩さと言うかね、深さというものは、私その、その御理解から頂いてもです、本当に、私、普通の人間では、言わば、学者が、その一生懸命その事に、取り組んで勉強さしてもろうて、ね、言わば哲学的な深いその、理論をもって説いてもです、結局今日の新聞紙上に出ておる、そこまでしか、説くことが出来ない、そして、結論としてです、「信仰によって病気が助かるのではない」と、ね、いわゆる「信仰によって病気が治るか」と、(言うてる現象んまーく?)ということになってる、ね、そして、何を言おうとしておるかとと言うと、「決して信仰で、商売が繁盛したり、信心によって、いや病気が治ったりするのじゃはない、それは暗示を与えられるから、その暗示に動かされるんだ」と、ところが暗示は与えられなくてもです、例えば言う、教祖の神様は、そこんところを、もう一つ喝破しておられる、「そんなもんじゃない」と、ね、いわゆる、例えば暗示を言うてやらなくても、いやそうして改まらなくても、円満にならなくても、例えば悪人であっても、御取り次ぎを頂かしてもらうところから、信心しておかげを頂ける道がある、そういう人がです、なお、その人を言っておることもなら嘘じゃないから、暗示を受けて、教えを頂いて、ほんに自分の心が浅ましいと気が付いて、改まることによって、そういうおかげの頂けれるということもまた事実、けれどもそれだけでは決してないということ、ね、信仰によってもう絶対病気が癒えるということ、繁盛が出来るということ、運命の改革が出来るということ、ね、そげなことを研究してまいりますと、ほんと信心も、まあ面白うなる、有り難い、楽しゅうなる、そして、本当な事が分かる、なるほど信心しなければ分からない、ところに私共が出らせて頂くのでございます、ね。
どうぞ、やはり信心も、一つの、次元というものが、伴のうて、感じる、分からしてもらって、初めて感得するということが言えるでしょう、ね、分からしてもらわにゃいけんと思うですね。 どうぞ。